ロレンス・スターンとギャル曽根

英国はぐらかし文体文学の源とされる18世紀の長編小説『トリストラム・シャンディ』(ロレンス・スターン、朱牟田夏雄訳、岩波文庫)を読みはじめた。冒頭、時の政治家に宛てられた献呈の辞に、おおっ?!と身を乗り出したので、ここに写します。

「……私は、健康の衰えやらそのほかの人の世の禍いなどから、何とか笑いの力で身を守ろうものと、不断の努力を重ねながら生きている身でございます。私めがかたく信じておりますのは、人間は微笑を浮かべるたびに――いえ、哄笑ということになればいちだんとそうでございますが――それだけこのつかの間の人生には、何かが加えられるということでございます」

こ、これは、っほんとーに不遜ながら、大馬鹿野郎なラブコメ小説を書いただれかの信条とまったく同じではないか!
つかの間の人生に何かが加えられたところでほとんど価値はなさそうであり、じっさい、ないのかもしれないが、何も加わらないよりいくらかましだと私は思っている。

ところで先ほど『キンスマ』でギャル曽根誕生秘話を見る。(どーでもいいインフォで恐縮だが、ちょっと食べ過ぎるとすぐ死にそうになる私にとって、ギャル曽根は神とも仰ぎたくなる存在なのだ。)彼女は、裕福だった実家が零落し、思う存分食べられなかった時期をくぐり抜けた結果、食べる欲求と能力がなおさら鍛えられたのではないか。

というか、能力なんかたぶんあとからついてくるんだろう。欲求を正しく育む――つまり、飢えても飢えてもいじけたりクサったりしない精神を養うことのほうが、むずかしいかもしれませんですね。どないでしょうか。