「“歌合戦”として楽しむサッカーW杯」

 点けっ放しのテレビから、ドラマらしき音声が耳に入ってきたとしよう。複数の登場人物が対立し、たがいに言い合うセリフが重なって、発言をゆずらない状態が続くと、それはまず日本のドラマではなく、たいてい洋画の吹き替えである。よくはわからないが、韓国や中国のドラマでもそんな場面は皆無ではなさそうだ。

 日本人は、目の前の相手が異論を唱えつづけているとき、言い返せずに押し黙ってしまうか、さもなければ感情的に怒鳴ったりしてしまいがちだ。相手の言葉に一切耳を貸さずに自分の意見を滔々と主張しつづけ、言い負かすつもりでパワーと粘りを発揮しつづけるのは不得手に思える。

 サッカーの試合を見ていると、このスポーツはまるでその手の能力や技を競い合っているかのように感じさせられる。ほんの一瞬、相手の出方を窺ったせいで点を取られてしまうからだ。一対一に強いとか弱いとか言われる背景には、そうしたコミュニケーション文化の違いがあるのではないか。

 いわばサッカーは歌合戦だ。ホイッスルと同時に両チームがそれぞれの歌を歌いはじめ、相手の歌に揺さぶられたり、引きずり込まれたりせずに自分たちの歌を歌いおおせ、こちらのグルーヴを相手に崩させない方が勝つのだ。リズムもテンポもまるで違う別の歌を歌う相手が接近したとき、向こうの方が声量が大きくても、芸が上でも、釣られずにこっちの歌を歌いつづけねばならない。コースを読まれ、パスしたボールが巧みにカットされるときは、すでに歌の詳細を把握されているのだろう。
 となると当然ながら音楽風土も関係があるのだろう。世界を見渡せば、南米やアフリカだけでなくアラブやインドなどにも、異なるリズムを複数の打楽器で刻むポリリズムの伝統音楽が存在するようで、そうした環境で育まれたサッカー選手はやっぱり己のリズムを守ることに長けているのかしら、と想像をめぐらせたりもする。

 ひと夏、ワールドカップをそんな見方で楽しんでみようと思う。

(「日本文藝家協会ニュース」平成22年6月号に寄稿。会員にのみ配布されるクローズドな媒体なのでここにアップしました。「随筆を」との発注は生まれて初めてかも。ちなみに〆切はカメルーン戦の直前です――日本代表がこれだけ見事な闘いっぷりを見せたあとなので、ちょっと言い訳)