ベケット「マーフィー」冒頭、川口&三輪訳

「太陽は、しかたなしに、あいも変わらぬところを照らしていた。マーフィーは、ウエスト・ブロンプトンの路地奥に、あたかも自由であるかのように、太陽を避けてすわっていた。すでに六か月にもなろうか、ここで、南東に面した普通サイズの住処の屋並みが直接見える、北西に面した普通サイズのこの住処で、彼は、食べ、飲み、眠り、服の脱ぎ着をしてきたのだった。だがまもなく他の手はずを整えなければならないだろう、この路地奥は取りこわし宣告を受けているのだから。まもなくまったく異質な環境のなかで、食べ、飲み、眠り、服の脱ぎ着をすることに精出さなければならないだろう。……」(川口喬一訳、白水社

「それ以外に方法がないままに、太陽はなにひとつ新しいところがないものの上に照り輝いていた。マーフィは、まるで自由であるみたいに、それに背を向けて、ロンドンのウエスト・ブロンプトンの袋小路の奥に座っていた。彼はそこで何か月も、いや何年も、北西に面した普通サイズの小さな家で、食べたり、飲んだり、寝たり、着物を着たり脱いだりしていたらしい。南東に面したほかの普通サイズの家々は見わたすかぎりとぎれもなくつづいていた。もうじき彼は引っ越さねばならなかった。その袋小路の家が没収されることになったからだ。もうじき彼はまったく別の環境で、食べたり、飲んだり、寝たり、着物を着たり脱いだりすることをおぼえ直さねばならなかった。……」(三輪秀彦訳、ハヤカワ文庫)