「鼻毛を読む」、夢野久作説

以下は、Wikipedia「鼻毛」の項で取り上げられていた夢野久作の随筆「鼻の表現」(三一書房夢野久作全集7』、1970年)からの引用です。先ほどM区Y中央図書館へチャリを転がし、本書を借りて参りました!

それを読んでいただく前に、落語家の立川雲水さんから頂戴した示唆を添えておきます。
狐というものは、眉毛の数を見抜いた相手をだますとされたらしい。だから、眉毛の数を数えられないよう、つばをつけたというんですね。この「眉つば」の由来をどうぞ頭の片隅に置いてお読みください。

「……もっと主観的な形容の方では、『鼻下長』とか『鼻毛が長い』と言う言葉もあります。『もあります』位ではない、随分と方々で承るようであります。

御知り合いのうちにお出でになるかも知れませんが、お美しい夫人を持たれて内心恐悦がっておられる方や、すこし渋皮の剥けた異性さえ見れば直ぐにデレリボーッとなられる各位の鼻の表現を指したもので、何も必ずしも具体的に鼻の下や鼻毛が長いという意味ではありません。唯さようした方々のさよう言ったような心理状態を鼻が表現しているために、かよう言ったような形容詞を用いたものらしく考えられるのであります。

(中略)つまり異性に対して恍惚としていられる方の気持はともかくもダレていて、天下泰平ノンビリフンナリしている処があります。そのために鼻の付近に緊張味がなくなって、鼻の穴が縦に伸びて中の鼻毛でも見えそうな気分を示すので、これは誠に是非もない鼻の表現と申し上ぐべきでありましょう。

(中略)ただその態度のうちに相手をすっかり馬鹿にし切って鼻毛までも数え得ると言う冷静さと同時に、上っ面だけは甘ったれたのんびりした気分から鼻毛でも勘定して見ようかと言う閑日月が出て来る。その気持を代表した睡そうな薄笑いがそうした場合の女性の鼻の表現に上ってはいまいかと想像し得る……(後略)」(「鼻の表現」より。『夢野久作全集7』)

つまり、とんだ牝ギツネなら眉毛の数を数え切ってなお余裕綽々、鼻毛の数まで数えて殿方をたぶらかす、ということなのでしょう。

木下尊惇ソロ・コンサート@近江楽堂@東京オペラシティ

9月のあたまにも一度、大雨が降って気温がだいぶ下がった日があった。その直後にフォルクローレ・ギタリストの――とりあえずこの肩書きを添えます――木下尊惇さんのソロ・コンサートを聴いた(9日、近江楽堂@東京オペラシティ)。
しみじみ楽しくて、濃くて力強い、すばらしいコンサートだった。「ただただ、この歌を、この曲を届けたい」という真情がガツンと伝わってきて、心をタテ横斜めに揺さぶられた。
ゲストの、クラシック・ギターの松下隆二さんも、花を添えるどころか、お二人のデュオでひと晩中聴いていたいくらいだったし、ほんとは箏奏者なのにシンガーとしてもカッコいい森川浩恵さんの「ありがとういのち」(作詞・作曲/ビオレッタ・バラ)もまた聴けてよかった。客席にはこの歌の詞を訳した高橋悠治さんの姿も。

木下さんを初めて聴いたのは7、8年ほど前、トランペットの渡辺隆雄さんとパーカッショニストの小澤敏也さんのユニット、ピカイアが主催する、南米音楽寄りのミュージシャンを広く束ねた「ピカイア祭り」というライブ・イベント(西荻窪・音や金時)で。
ギターの音がピキピキしててロックっぽいなぁ、鬼怒無月さんのギターを思い出すなぁ、しゃべりが面白いなぁ、こんな人がフォルクローレというジャンルにいるなんて!とびっくりし、気がついたら木下さんのワークショップに通っていたのでした。

そのワークショップでいちばん興味深かったのは、それまでわたしが携わった2度のバンド遊びでもの足りなかったところ――にもかかわらず自分ではうまく言語化できなかったことがらが、木下さんの口からはっきりと言葉で示されたこと。たとえば、「グルーヴがある」とはどういうことか、何がグルーヴをつくるかとか、曲の流れと構成をメンバー全員がきっちりとらえて演奏する楽しさなど。音楽にジャンルなんて関係ないことをひしひしと感じたのでした。

木下さんの活動を知ったことで、自分の音楽観も少し変化した。それまでは、音楽イコール趣味の一分野だったが、音楽は趣味以上のもの、人に生きる力をダイレクトに注入するものだと思うようになった。音楽全般がもっと好きになったのかも。

ジャンルにこだわらない音楽好きには、いっぺん木下さんを聴いてみてほしい。フォルクローレ音楽ファン、南米音楽ファン以外を魅了する木下さんをもっともっと見てみたい――と、今日もまたぞろレッチリを聴いていた私は思うのだ。

Warehouse @祐天寺Cafe & Livespot FJ's

先週24日(木)夜は、CHAOS JOCKEY(山本精一g、茶谷雅之ds)@下北沢ではなく、Warehouse(鬼怒無月g,大坪寛彦b,高良久美子vib,per) @祐天寺へ(Cafe & Livespot FJ's)。どっちへ行くかどんだけ迷ったか。
ところがFJ'sへ向かう決心ののち、駒沢通りを歩いていたら、今度は足のほうが迷い加減だったのか、FJ'sを通り過ぎてしまっていたようで、だがしかし運良く、入り時間直前の鬼怒さんたちに遭遇。鬼怒無月さんご本人に「あっちですよ」と教えていただく。
1部はWAREHOUSEの2枚のアルバムから。2部は、『ルーシー・ショー』『奥様は魔女』『刑事コロンボ』といった海外ドラマや映画の主題曲を演奏するという趣向。これがあなた、疲労と寝不足が吹っ飛ぶ楽しさ!
ちなみに『刑事コロンボのテーマ』のあの電子音、「ぴよーよ、ぴよーよ、ぴよーよ・ぴ〜」は、ベースの大坪さんがなんと鼻笛で再現。鼻笛だよ! そしてよけいなお世話だが、大坪さん、鼻笛が似合っていた!
も少し引っぱります、楽しいライブだったから。鬼怒さんのMCは相変わらずのマイペースなボケ。「おいしそう」とお客さんの食すケーキに薮から棒に言及すると、それを高良さんが、「もぅー、子どもじゃないんだからー」とたしなめてレシーブするなど、ナッチュラルな掛け合いも愉快、愉快。
それにしてもラストの『おしゃれ㊙探偵』(『アベンジャーズ』のテーマ?)は、WAREHOUSEのために創られたかのよう。WAREHOUSEの楽曲って、リズムもメロディもちょっと聴くと耳に優しそうでなじみやすいのに、どこかスリルがあって、そのうち企みも垣間見えるような感じで、てんで聞き流せないのだ!

以上、Twitterに連続ポストした書き込みを再録しました。鬼怒さんにツイートしたらお返事を頂戴して、うれしかったー♡

ベケット「マーフィー」冒頭、拙試訳

太陽は、そうする以外どうしようもなく、いつもとまるっきり同じ場所を照らしていた。マーフィーはウエスト・ブロンプトンの路地裏で、自由に居場所を選べるかのように日陰に腰かけていた。かれこれ半年の間、彼が飲み食いを行なったり、寝たり、服の脱ぎ着をしたりしてきたのは、ここ――南東に面した、鳥小屋みたいな、平均サイズの集合住宅の、景色だけははるかに見渡せる北西に面した平均サイズの部屋だった。だがこの路地は少し前に通行禁止になってしまったため、まもなく彼は引っ越しをするための別種の身支度をしなければならなくなる。まもなく彼は仕方なしに荷物をまとめ、まったくなじみのない環境で飲み食いを行なったり、寝たり、服の脱ぎ着をしたりすることになるのだ。……

ベケット「マーフィー」冒頭、川口&三輪訳

「太陽は、しかたなしに、あいも変わらぬところを照らしていた。マーフィーは、ウエスト・ブロンプトンの路地奥に、あたかも自由であるかのように、太陽を避けてすわっていた。すでに六か月にもなろうか、ここで、南東に面した普通サイズの住処の屋並みが直接見える、北西に面した普通サイズのこの住処で、彼は、食べ、飲み、眠り、服の脱ぎ着をしてきたのだった。だがまもなく他の手はずを整えなければならないだろう、この路地奥は取りこわし宣告を受けているのだから。まもなくまったく異質な環境のなかで、食べ、飲み、眠り、服の脱ぎ着をすることに精出さなければならないだろう。……」(川口喬一訳、白水社

「それ以外に方法がないままに、太陽はなにひとつ新しいところがないものの上に照り輝いていた。マーフィは、まるで自由であるみたいに、それに背を向けて、ロンドンのウエスト・ブロンプトンの袋小路の奥に座っていた。彼はそこで何か月も、いや何年も、北西に面した普通サイズの小さな家で、食べたり、飲んだり、寝たり、着物を着たり脱いだりしていたらしい。南東に面したほかの普通サイズの家々は見わたすかぎりとぎれもなくつづいていた。もうじき彼は引っ越さねばならなかった。その袋小路の家が没収されることになったからだ。もうじき彼はまったく別の環境で、食べたり、飲んだり、寝たり、着物を着たり脱いだりすることをおぼえ直さねばならなかった。……」(三輪秀彦訳、ハヤカワ文庫)

ベケット『マーフィー』原著冒頭より

The sun shone, having no alternative, on the nothing new. Murphy sat out of it, as though he were free, in a mew in West Brompton. Here for what might have been six months he had eaten, drunk, slept, and put his clothes on and off, in a medium-sized cage of north-western aspect commanding an unbroken view of medium-sized cages of south-eastern aspect. Soon he would have to make other arrangements, for the mew had been condemed. Soon he would have to buckle to and start eating, drinking, sleeping, and putting his clothes on and off, in quite alien surroundings.……(Samuel Beckett, Murphy, Faber and Faber 2009)

初刊は1938年。ちかぢか、川口喬一訳(白水社『マーフィー』)と、ベケット自身による仏訳からの三輪秀彦訳(ハヤカワ文庫『マーフィ』、絶版)の当該箇所を引用し、わたしの試訳もアップする予定です。
ひさびさに長編小説に取り組み始めたとたん、翻訳本をチラ見。かえすがえすも浮気性です……。あー、いかんいかん……。

「“歌合戦”として楽しむサッカーW杯」

 点けっ放しのテレビから、ドラマらしき音声が耳に入ってきたとしよう。複数の登場人物が対立し、たがいに言い合うセリフが重なって、発言をゆずらない状態が続くと、それはまず日本のドラマではなく、たいてい洋画の吹き替えである。よくはわからないが、韓国や中国のドラマでもそんな場面は皆無ではなさそうだ。

 日本人は、目の前の相手が異論を唱えつづけているとき、言い返せずに押し黙ってしまうか、さもなければ感情的に怒鳴ったりしてしまいがちだ。相手の言葉に一切耳を貸さずに自分の意見を滔々と主張しつづけ、言い負かすつもりでパワーと粘りを発揮しつづけるのは不得手に思える。

 サッカーの試合を見ていると、このスポーツはまるでその手の能力や技を競い合っているかのように感じさせられる。ほんの一瞬、相手の出方を窺ったせいで点を取られてしまうからだ。一対一に強いとか弱いとか言われる背景には、そうしたコミュニケーション文化の違いがあるのではないか。

 いわばサッカーは歌合戦だ。ホイッスルと同時に両チームがそれぞれの歌を歌いはじめ、相手の歌に揺さぶられたり、引きずり込まれたりせずに自分たちの歌を歌いおおせ、こちらのグルーヴを相手に崩させない方が勝つのだ。リズムもテンポもまるで違う別の歌を歌う相手が接近したとき、向こうの方が声量が大きくても、芸が上でも、釣られずにこっちの歌を歌いつづけねばならない。コースを読まれ、パスしたボールが巧みにカットされるときは、すでに歌の詳細を把握されているのだろう。
 となると当然ながら音楽風土も関係があるのだろう。世界を見渡せば、南米やアフリカだけでなくアラブやインドなどにも、異なるリズムを複数の打楽器で刻むポリリズムの伝統音楽が存在するようで、そうした環境で育まれたサッカー選手はやっぱり己のリズムを守ることに長けているのかしら、と想像をめぐらせたりもする。

 ひと夏、ワールドカップをそんな見方で楽しんでみようと思う。

(「日本文藝家協会ニュース」平成22年6月号に寄稿。会員にのみ配布されるクローズドな媒体なのでここにアップしました。「随筆を」との発注は生まれて初めてかも。ちなみに〆切はカメルーン戦の直前です――日本代表がこれだけ見事な闘いっぷりを見せたあとなので、ちょっと言い訳)